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help リーダーに追加 RSS REVIEW 「第21回東京国際映画祭」アジアの風 Part.9

<<   作成日時 : 2009/01/30 03:18   >>

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『ポケットの花』(写真)『モーツァルトの街』

『ポケットの花』
父は妻に去られて以来、常軌を逸した生活を送っている。
マネキン工場で夜遅くまで働き、
マネキンが無造作に積み込まれたオンボロ車で
早朝にアパートに帰宅するや、
子供たちの寝顔を見て、台所のソファでひっくり返る。
まさに昼夜逆転生活で、幼い兄弟のことを顧みる時もない。
むしろ、妻との思い出の詰まった自宅に帰りたくないから、
朝まで働いているようにも思える。
そんな父に、小学生の兄弟は、朝、タオルケットをかけて、通学していく。
家庭環境で言えば、今年の同部門で上映された
『私のマジック』を想起させるが、
この映画の子供たちは腕白な兄弟だからだろうか、
底抜けに無邪気で、ごはんに卵とお湯をかけて、
そこにケンタッキーのケチャップを入れた食事でさえ
御馳走だと信じているトボけた逞しさがある。
しかも、それを明け方、帰宅する父のために、取り分けておく周到さだ。
それだけで、彼らのことが愛おしくなる。
右目の下に絆創膏をした弟は、その面構えだけでもやんちゃそうだ。
マレー語が話せない彼は、教師とのやりとりもクラスメイトの中国語の通訳が必要で、
打てども響かない彼マー・リーアに向かってその女教師は、
「マリア」なんて男の名前は可笑しいと、理不尽な怒りをぶちまける。
一方、兄のリーオームは、画用紙の隅っこに絵を描き、
残りの部分は空だと平気で言いきってしまうような夢見がちなところがある。
中華系の彼らが学校に馴染めない様子が伝わってくるが、
下校途中に気の弱そうな同級生に絡むものの、
その子の母親が高級車に乗って迎えに来ると、
しょんぼりと置いてきぼりにされてしまう。
むしろ、いじめられっ子のほうが、兄弟に付きあってやってるといった風情なのだ。
兄弟にとって、学校生活なんて大したことはないという
開き直りが感じられるのが、何より痛快だ。
きっとそれは、監督リュウ・センタックのポリシーにも通じるのだろう。
ふたりは勉強こそできないものの、朝起きて必ず学校に行く。
通学バスに乗り遅れようが、遅刻しようが、教室まで辿り着く。
決してズル休みはしない。そんな律儀な生真面目さも、彼らに共感を寄せる一因だ。
また明け方、寝ぼけ眼で布団に潜り込んだまま、制服に着替え、
バス停でサイズが違うからと兄弟で交換する姿も愉快だ。
そんな彼らが、マレー系の少女アタンと出逢う。
恥ずかしがり屋の中国系の少年と、異性にも積極的なマレー系の少女の図式は、
ヤスミン・アハマドの少年少女像とも共通するが、
それまでの兄弟には祖母と母の3人で暮らすアタンのように、
手を洗ってから食事をするという習慣さえ皆無だったのだろう。
父親不在の女系家庭と、母親不在の男系家庭の本質的な対照。
そこに兄弟の憧れがこぼれるのは、男性監督の眼差しゆえだ。
そうして、湧きあふれる愛情の捌け口を求めるように、兄弟は野良犬を拾う。
彼らの希望を仮託するようにハッピーと名づけ、
粗末なりに食事を愛犬のために分けてやる。
けれど、兄がリュックサックに入れて登校したのがばれて、父は学校に呼び出される。
リュウ・センタックはそれを教員室の窓越しに長回しでとらえ、
中の会話は一切聞こえない。そこにも、学校からの疎外感を意識していることが判る。
雨の中、車はまるでピクニックのように家族3人を乗せる。
しかし、父はゴミ捨て場に急ごしらえの犬小屋をあつらえ、そこにハッピーを捨てる。
雨に打たれながらハッピーを探した弟は、
いつもの元気はどこへやら、発熱に苦しみ、彼の看病をしようとした兄は、
うっかり割ったコップの破片で手を切り、血まみれになってしまう。
父が息子たちの異変に気付いたのは、いつものように明け方に家に辿りついてからだ。
台所に散らばったコップの破片で足を切った彼は、
自分の足から血があふれるのもお構いなしで、両手で兄弟を抱え、病院に急ぐ。
そのとき、彼はようやく父のありようを自覚したのだろう。
妻の映った写真を半分にちぎって、妻の部分を呑みこむ。
そこで喉を詰まらせるところに、観る者にも彼の苦渋が泣き笑いとなって伝わる。
心憎い心理描写だ。
父は元気になった兄弟のために、泳ぎ方を教える。しかし、それは陸の上だ。
公園の草むらで家族3人で自由気儘に“泳ぐ”彼らの幸福は、
そんなささやかなことだったのだ。
親子のほのぼのとした優しさが、観る者の心に温かな灯をともす痛快作。
マレーシア映画は、やっぱり面白い。

●DATA
Flower in the Pocket
2007年マレーシア映画
監督=リュウ・センタック
出演=ウォン・ズィージャン、リン・ミンウェイ、ジェイムズ・リー


『モーツァルトの街』
オープニングで、モーツァルトの国から来韓した美人女性ピアニストが
ソウルの街に降り立つが、異邦人たる彼女の視点は、
あっさりとこの映画を素通りする。彼女は、物語を紐解く傍観者にすぎず、
相変わらずの煮え切れない愛の葛藤を抱えた韓国人男女と
ヤクザ世界のドメスティックな世界に落胆してしまう。
売店で虚ろな表情を浮かべるジウォンの絶望的な眼差しは、
父の形見のアンティークなキャメラを通して、街を行き交う人々への視線となる。
夫の失踪から3年間、彼女は姑からの電話を聞き流しながら、
自分の人生を生きることをないがしろにしてきたのだろう。
それでも、街の風景を眺めながら、「こうして秋が過ぎてゆく」と呟く彼女の本音。
今の中途半端な自分自身に対して、ふんぎりがつかないのだ。
ピアノ調教師ドクサンと借金取りのイルワンが彼女に魅かれたのは、
彼らと同じ内面の孤独を感じ取ったからかもしれない。
バス運転手の父と暮らす独身のドクサンは、
自分の料理に文句をつける父に、きつい言葉を言い放つ。
マンションの部屋からジウォンの売店が見えるイルワンは
自分の経営するクラブの女主人とは腐れ縁の様子だが、
同時に汚職警官に彼女を差し出すように、人間的なモラルでは堕落していた。
思わず、彼が酔っぱらいに絡まれるジウォンを助けたのは、
自分の心にかろうじて残る正義感だ。
ドクサンとイルワンという対照的なふたりの男から同時期に好意を寄せられて、
これまで膠着していたジウォンの心も、ためらいがちに再び鼓動を刻むのがいじらしい。
父の観光バスでの異色デートの後、
ドクサンと身を寄せたラヴホテルの一室で、
コンドームを片手にジウォンが涙するのは、未だに音信不通の夫に対する未練だ。
彼女とドクサンは以前に、互いにそうと知らぬままチャットで際どい会話を交わし、
そのときもジウォンは「生理だから」と言い残してドクサンの前から姿を消した。
そしてそのときと同じように、
やはりジウォンは彼がシャワーを浴びている間に、部屋から姿を消すのだ。
素朴な外見のドクサンが性に積極的なのに対して、
マッチョを絵に描いたようなイルワンが性的不能という対象も興味深い。
ふたりのジウォンへのアプローチの違いは、ほかにもある。
売店でふたりが行き会ったとき、
ふとした弾みでジウォンの父のキャメラを路上に落とし、壊してしまう。
すると、ドクサンは新品のデジカメをジウォンにプレゼントし、
イルワンはキャメラ街を歩き回って、
アナログキャメラを修理してくれる店を探し出す。
壊れて使い物にならなくなったキャメラも再生のチャンスがあるように、
人間の心も同様だ。
ジウォンは夫からの突然の電話に、ソウルを去って夫の許に向かう決意をする。
調律工場を閉鎖されたイルワンは、父の跡を継いで観光バスの運転手となった。
お金で問題を解決するドクサンは、ヤクザ稼業にどっぷり浸かって、
首が回らなくなっている。そこまでは、いい。
悪徳クリーニング店主によって搾取されるアフリカからの不法労働者に
ドクサンは刺殺されるが、そのアフリカ人夫婦の演技があまりにも軽薄で、
せっかくの長回しの緊張感が皆無に等しい。
このアフリカ人夫妻像も紋切り型で、その“弱者”ぶりにうんざりしてしまうが、
彼らがそうやすやすと出国できるはずもない。
殺人現場には、夫婦の息子の写真が残されている。
マダムがドクサンの死を悟り、刑事のいるクラブのフロアで
無表情に放尿する虚無もピンとこない。
物語はオープニングに戻り、無人となった売店の軒先には、
ジウォンの撮った写真が飾られている。
キャメラは街を行き交う人々の瞬間をありのまま捕えるが、
多彩な登場人物の交錯は作品の焦点を散漫にし、群像劇のうねりにも乏しい。
「モーツァルトの街」というタイトルも謎のままだ。

●DATA
Mozart Town
2008年韓国映画
監督=チョン・ギュファン
出演=オ・ソンテ、チョ・ユラン、ブレイズ・グバト

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